フェニキア人は謎が多い。なぜなら、彼らの一次資料がないせいだ。
フェニキア人はローマ人によって完全に滅ぼされたせいだ。
ギリシャ人が言うには、「自分たちはローマ人の奴隷になってしまったが、彼らはその苦しみを知らずに済んだ」ということだそうだが、当時の地中海世界の認識としてはローマ人はとんでもない野蛮人であった。
ギリシャとローマをひとくくりにする近代のヨーロッパ至上主義の嘘のせいで気づかないが、当時基準では、ギリシャ人はフェニキア側だった。
対カルタゴの無慈悲かつ約束を不履行にしたさまは当時の地中海の避難を浴びた。もっともローマ人はそんな彼らも、皆奴隷にしてしまったのだが……。
ローマ人の奴隷にならなかったのは、有名どころではペルシア人だけだろう。
フェニキア人の手によるものとされるのは、ラテン語に訳された農書一冊のみである。
しかしこれは重要な一冊で、のちのローマ帝国の基板となる農業、そして貴族制度を形作っていく。
ローマ人は実のところ、フェニキア人に多大な影響下に発展してきた。
ローマ人の師匠筋のエトルリア人はフェニキアを宗主国と仰いでいたらしく、ローマ字のもとになったエトルリア文字はおそらくギリシャ経由ではなく、直接フェニキアからもたらされた可能性も高いと思われる。
もっとも、このローマ人に文明を教えたとされるエトルリア人もまた、完膚なきまでに滅ぼされ(残党は同化した。カルタゴ人も同じだろう)、墓の碑文以外、エトルリア人の書物はなく、エトルリア人も謎だらけだ。
ところで、カルタゴは非常にローマに似た市政をひいていた。
ユーロセントリズムの視点では、これはグレコローマンの影響に見えるかもしれないが、実際は異なると思う。
なぜなら、ギリシャの暗黒時代に光を与えたのもまた、フェニキア人だからだ。
そもそも、前史もないのに古代ギリシャ文明がある程度高度な状態で出現するのが不自然だ。それ以前にクレタ文明などがあったとはいえ、数百年以上断絶している。おかしくないか?
フェニキア人が西地中海に植民したのは、東はギリシャ人がいたから、という通説は間違っていて、そもそも地中海一帯にフェニキア植民市があったと考えるほうが妥当ではないだろうか。私にはそう思える。
ギリシャでは、自分たちをエウロパ(つまりヨーロッパ)と呼び、アシア(ペルシア人)、リビア(北アフリカ人)とは異なると吹聴したが、そもそもエウロパはフェニキア王の娘の名なのだ。
少なくともここからはっきりするのは、古代ギリシャにおいてペルシア人を野蛮人呼ばわりしていたギリシャ人が、フェニキア人に対してはそういう感情を抱いていないばかりか、憧れを抱いていたということだ。
テーバイ市はフェニキア人がつくったとさえギリシャ人は思っていたし、ゼウス神殿の前身がフェニキアの神殿であったという考古学調査もあるようだ。
つまり、フェニキア人は地中海一帯に植民政策を進めた(逆に言うとフェニキア人は陸戦に弱く、シリアから出るには海しかなかった)。
ギリシャやエトルリアにも植民市は築かれたが、フェニキア人側が少数だったため、次第にギリシャ人やエトルリア人たちが多数となった市は、やがてギリシャ都市・エトルリア都市になっていく。
これはよくあることで、近世でも満州人は漢民族に文化も言語も名前も取り込まれ、民族の独立性をなくしてしまった。中国史では、韃靼や契丹、拓跋などもそうだろう。モンゴル人は難を逃れた。
一方、人口の少なかった北アフリカやイベリアではそのままフェニキア人が多数勢力のまま、数百年経つ。
つまりだ、ローマ的、ギリシャ的とされる民主制そのものがフェニキア人によってもたらされたのではないか。
フェニキア本国は王政ということになっているが、外野が言っているのであって、フェニキア人の一次資料はないんだ。
ギリシャ建築はエジプト建築によく似ているが、これはフェニキア人が長くエジプトの植民地だったことを考えると納得がいく(一方、フェニキア人は文字や商売のやり方はエジプト人から習得していない)。
フェニキア人はメソポタミア様式の顔面をもつミイラの棺も作っている(どうもミイラは魅力があるらしく、そのあと、ギリシャ人もヘレニズム様式の顔面をもつミイラマスクなどを作成した)。
エジプト人は海の勢力拡大にあまり興味がなかった(当時のエジプトは世界一の大国である。膨大な食料生産と富、人口を有していた上、軍事的にも強かった。わざわざ外国へいく必要なんかなかった。アメリカ人が海外に興味がないのと同じだ)ので、エジプト人がギリシャへ行くとは考えにくい。
フェニキア人経由だったのではないか。
フェニキア人は長らく歴史の闇の中だった。
ごく最近まで、地中海はローマ人とギリシャ人に支配されていて、カルタゴは所詮格下というイメージだった。
ところが、海洋考古学などで、フェニキア人が非常に強い海の勢力だったことがわかってきている。
ただ惜しむらくは彼らの一次資料がとんでもなく乏しいことだ。フェニキア人はくさび形文字をやめたときにパピルスに切り替えたらしく、パピルスは耐久性に難があるため殆ど残っていない。
ギリシャ文明だって当時の資料がそのままあるわけではなく、写本の形式や、アラブ翻訳されたものなどであって、保存され続けてきたわけではない。
ギリシャ語資料が残存した最大の理由は、東ローマ帝国というギリシャ語を行政言語にする強力な国家が10世紀のちにも存在したことだ。
一方、エジプトはプトレマイオス時代はヒエログリフも使われたが、ローマ時代に行政言語の地位を失い、2000年経ってしまった。
フェニキア語はカルタゴの滅亡とともに行政言語ではなくなった。
そう、漢語は殷王朝の時代から断絶もありながら4000年使用されてきたために、膨大な文書を有する。どれも紙なので日持ちしないのだが、写本として書き写されてきたのだ。
フェニキア人は何を記していたのか。興味は尽きない。